著者:リチャード・パーキンス
撮影日:2025年08月22日
住所:〒669-5252 兵庫県朝来市
和田山町竹田古城山169
日本には数多くの城があります。復元された城もあれば、当時の姿を残している城もあります。また、建物は失われ、跡地のみが残っている場所もあります。そのような城跡の中でも、最もよく知られているのが「竹田城」でしょう。現在は「竹田城跡」として、多くの観光客や地元の人々を魅了しています。
竹田城は、嘉吉(かきつ)年間(1441~1444年頃)に築かれました。但馬(たじま・現在の兵庫県北部)を治めていた山名宗全(やまなそうぜん・室町時代〔1336〜1573年〕の武将・守護大名)が、太田垣氏(おおたがきし・武士の一族で、山名宗全の重臣)に築城を命じたとされています。その後、山名氏の家臣だった太田垣氏が、初代当主の光景(みつかげ・誠朝という説もあり)から7代にわたって城主を務めました。しかし、1580年に羽柴秀吉(はしばひでよし・後の豊臣秀吉)が但馬へ攻め込んだため、竹田城は落城し、太田垣氏も勢力を失いました。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦い(徳川家康が日本の実権を握り、江戸幕府を開くきっかけになった戦い)が起こりました。当時、赤松広秀は竹田城の城主でした。関ヶ原の戦いでは、西軍と東軍に分かれて戦いが行われ、赤松広秀は最初、西軍に加わり、丹後国(現在の京都府北部)にあった田辺城を攻めました。その後、西軍が敗れたことを知ると、竹田城に戻りました。そして、東軍として鳥取城を攻めていた亀井玆矩(かめいこれのり・安土桃山時代〔1573〜1603年〕から江戸時代〔1603〜1867年〕前期にかけての武将・大名)の要請を受け、援軍として出陣しました。その戦いで功績を挙げたとされていますが、鳥取城を攻めた時、城下町への放火の責任を問われ、切腹しました。その後、竹田城は廃城になりました。
竹田城跡は、兵庫県朝来市にある古城山(こじょうざん)の山頂に位置しています。登るコースによって所要時間は異なりますが、最も歩きやすいコースでは、徒歩で約15~20分かかります。富士山に登るような本格的な登山ではありませんが、遊歩道には大きな岩が多く、やや険しい場所もあります。そのため、誰でも気軽に歩ける道ではなく、注意が必要です。
標高354メートルの古城山の山頂まで登ると、約18,473平方メートルに広がる壮大で美しい竹田城跡を見ることができます。古城山の山頂には、竹田城の石垣が現在も残っています。そのため、かつて建っていた城の姿が想像しやすいでしょう。一面に広がる芝生や点在する木々が美しい景観を作り出していて、何枚もの写真を撮りたくなるような景色が広がっています。
山頂からは朝来市の街並みを見下ろすことができ、開放感のある眺めも楽しめます。また、歩きやすい遊歩道が整備されているため、迷うことなく竹田城跡を見学できます。見学時間には個人差がありますが、約30〜60分で全体を回ることができます。
竹田城跡は、「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と呼ばれています。「天空の城」と呼ばれるのは、9~11月の明け方から午前8時頃まで、雲海が発生しやすいためです。雲海が古城山の山頂を包み込み、場所によっては竹田城跡が雲の上に浮かんでいるように見える、幻想的な景色が広がります。この景色を写真に収めようと、多くの人が訪れます。竹田城跡の山頂から撮影する人もいますが、竹田城跡を雲海とともに撮影する場所としては、竹田城跡から少し離れた立雲峡(りつうんきょう)が特に人気です。また、「日本のマチュピチュ」という呼び名は、雲海が発生しやすい時季の竹田城跡の景色が、ペルーのマチュピチュを思わせることに由来しています。
前述の通り、竹田城跡に辿り着くには、やや険しい道を通らなければなりません。しかし、大きな岩の間を進み、古城山の山頂まで登れば、言葉では表現し切れないほど美しい景色が目の前に広がります。ここは数々のCMや映画のロケ地にもなった場所で、この壮大な景色を自分の目で見ると、ロケ地として選ばれる理由にも納得できるでしょう。また、雲海が発生しやすい時季に訪れれば、更に幻想的で美しい景色を楽しむことができます。カメラ好きにはたまらない場所でしょう。兵庫県を訪れた時は、ハイキングを楽しみながら古城山の山頂まで登ってみませんか。竹田城跡は、ここにしかない歴史と美しい景観を兼ね備えた特別な場所です。
有名な俳人・松尾芭蕉の句碑です。紀行文『おくのほそ道』に収められている「夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)」という俳句が刻まれています。